新暦1872年2月29日にワシントンD.C.に到着すると、梅子は吉益亮子と共に、ワシントンD.C.近郊のジョージタウンに住むチャールズ・ランマン (英語版)(1819年[41]-1895年[42])に預けられた[40]。著名な画家・著述家・旅行家であった[注 8]ランマンは、当時、日本弁務使館書記官(Secretary of the Japanese Legation)を務めていた[40][注 9]。ランマン夫人(Mrs. Adeline Lanman[45], 1826年[41]-1914年[42])は、ジョージタウンの裕福な家庭に生まれ、高等女学校に相当する学校を卒業した女性であった[41][注 10]。新暦1872年5月1日には駐米少弁務使森有礼の斡旋で、留学生5人はワシントン市内に集められて同じ家に住まわされ、生活に必要な最低限の英語の勉強をさせられた[46]。同年10月末(新暦)には、上田悌子は体調不良を、吉益亮子は勉強に支障が出るほど目を悪くしたことを理由に帰国した[47]。残った3人が梅子、山川捨松(のちの大山捨松)、永井繁子(のちの瓜生繁子)である。この3人は生涯親しくしており、梅子がのちに「女子英学塾」(のちの津田塾大学)を設立する際に2人は助力する(→#女子英学塾を創設)。出典:ウィキペディア
- 上田悌子[注 6](幕臣・上田畯の娘[30][31]、満14歳[24]〉
- 吉益亮子(幕臣・吉益正雄の娘[31]、満14歳[24])
- 山川捨松(会津藩家老・山川浩の妹[31]、満11歳[24])
- 永井繁子(幕臣・永井玄栄の養女[24][31]、かつ幕臣・益田孝の実妹[24][31]、満8歳[24])
- 津田梅子(幕臣・津田仙の娘[31]、満6歳[24])
※各人の満年齢は、日本を出国した新暦1871年12月23日現在[24]。第二の両親、ランマン夫妻[編集]